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マルク諸島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マルク諸島
所在地 インドネシア
所在海域 セラム海・バンダ海
面積 74,505 km2
海岸線長 - km
最高標高 3,027 m
 プロジェクト 地形
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マルク諸島(マルクしょとう、インドネシア語: Kepulauan Maluku)、またはモルッカ諸島(オランダ語: Molukken)は、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島。スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置する。歴史的に香料諸島(スパイス諸島)[1]として知られている。ナツメグおよびクローブの原産地であり、これら香辛料の存在は16世紀におけるヨーロッパ諸国の植民地的関心を引き起こした[2]。生物地理学的にはウェーバー線の境界部に位置する(大部分は東側)。

日本では従来、西洋語の音写であるモルッカ諸島(蘭: Molukken)の名で広く知られてきた。しかし近年、国連地名専門家グループ(UNGEGN)が推進する「現地呼称の尊重・優先」の原則[3]や、日本の外務省・地理学界・学校教育等における標準化に伴い、現地語(インドネシア語)名に基づくマルク諸島(インドネシア語: Kepulauan Maluku)という表記へ移行している。

地名

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語源

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「マルク」(Maluku)に対応する語が初めて確認できる文献は、1365年に成立した古ジャワ語のカカウィンである「ナガラクルタガマ(インドネシア語版)である。同書第14章第5節には「Maloko」という名称が記されており、歴史学者テオドール・ゴーティエ・トーマス・ピジョーは、これをテルナテあるいはマルク諸島に比定している[4][5]。

「マルク」という名称は、「Maluku Kie Raha」という概念に由来する可能性がある。「Raha」は「4」を意味し、「kie」は山を意味しており、テルナテ島、ティドレ島、バチャン島、およびジャイロロ(ハルマヘラ島)という4つの火山島を指すとされる。ただし、別地域を指している可能性もある。それぞれの地域には「コラノ」(Kolano)と呼ばれる統治者がおり、後にスルタンの称号を名乗った。

「マルク」の語源については複数の説が存在する。「Moloku」は「握る」を意味し、「Loku」は交易単位を意味する語である。この解釈では、「Moloku Kie Raha」は「4王国の統合」を意味することになる。ただし、「Loku」はマレー語からの借用語とされる。また別の説では、「Maloko」は「支える」を意味する「Ma」と、「場所」あるいは「世界」を意味する「Loko」(後に「Luku」へ変化)から構成される語であり、「Maloko Kie Raha」は「4つの山が立つ世界」を意味するとされる[6]。

日本での呼称

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国際的には、国際標準化機構(ISO 3166-2:ID)におけるインドネシア国内行政区画・地理単位のコードに「Maluku(マルク)」が登録されているほか[7]、国連地名専門家グループ(UNGEGN)が推進する「現地呼称(エンドニム)の尊重・優先」(外来名〈エクソニム〉の削減)の地名標準化原則に基づき、旧宗主国由来の欧米風呼称である「モルッカ(Moluccas)」から、公式な現地名である「マルク」への移行・区別が進んでいる[3]。

日本では従来、西洋語の音写である「モルッカ諸島」が広く用いられてきた。一方で、現地で呼び習わされてきた現地呼称(エンドニム)である Maluku に由来する「マルク諸島」という表記も用いられており、東南アジア地域研究や地理学などにおいては、こちらのほうがより一般的である。また外務省や国際協力機構など日本の行政機関の公文書や事業報告においても、「マルク州」や「マルク諸島」の表記が用いられている[8][9]。

学校教育(世界史教科書や地図帳など)においても、この現地語尊重・エンドニム優先の観点から「マルク諸島」の表記を採用、あるいは「マルク諸島(モルッカ諸島)」のように歴史的呼称との併記を行う傾向が標準化している[10]。

歴史

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先史時代から香辛料貿易の発展

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タニンバル諸島の住民

現在のマルク諸島には、更新世以来、人類が移動・居住してきたことを示す考古学的証拠がある。マルク諸島を含むウォーレシアは、アジアとオーストラリアの間に位置しており、先史時代の人類の海上移動を考えるうえで重要な地域である。ただし、島ごとに考古学的資料や年代が異なるため、マルク諸島全体について単一の「最初の到達年代」を設定することは難しい。

古代から中世にかけて、マルク諸島では島嶼間の移動と交易が行われた。特にテルナテ島、ティドレ島、アンボン島、バンダ諸島などは、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料の産地として、東南アジアの広域交易網に組み込まれていた。16世紀以前から、マルク産の香辛料はジャワ島、スラウェシ島、マレー半島などへ運ばれ、さらにインド亜大陸方面へ流通していた。16世紀のバンダ諸島についての研究でも、ヨーロッパ人の到来以前から、香辛料を中心とした広範な島嶼間交易が成立していたことが指摘されている。[11]

この時期の交易には、マルク諸島の住民だけでなく、ジャワ、マレー、スラウェシ、中国など各地の商人が関与した。中国商人も東南アジアの海上交易網に参加し、マルクの香辛料を取引したことが史料から確認されている。17世紀初頭の史料には、中国商人のマルクにおける交易がオランダ東インド会社(VOC)にとって競争相手となっていたことも記録されている。[12]

イスラム教は中世以降、交易網の発展とともにマルク諸島へ広まった。テルナテ王国、ティドレ王国など北部マルクの政治勢力では、ヨーロッパ人が到来した16世紀初頭までにイスラム教が政治・社会秩序の一部となっていた。イスラム化は特定の外来勢力によって一挙に進められたものではなく、ジャワ島、スラウェシ島、マレー半島などとの交易・人的交流や、現地の政治勢力の改宗を通じて徐々に進展したと考えられている。[13]

ポルトガル・スペインの進出

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15世紀末から16世紀初頭にかけて、大航海時代の進展によりヨーロッパ勢力がインド洋・東南アジアへ進出した。香辛料はヨーロッパ市場で高い価値を持っていたが、この進出の背景には、既存のアジア交易網、オスマン帝国の拡大、航海技術の発展、各国の海外進出政策など複数の要因があった。

ポルトガルは1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓後、インド洋から東南アジアへ進出した。1511年にはマラッカ王国を征服し、東南アジアの海上交易への進出を強めた。

1512年、ポルトガルの艦隊がマルク諸島に到達した。アントニオ・デ・アブレウやフランシスコ・セラオンらが率いた艦隊は、香辛料の産地であるマルク諸島を訪れた。セラオンは帰途に遭難してマルクに残り、現地の政治勢力と関係を結んだ。その後、ポルトガルはマルクに交易拠点や要塞を設け、香辛料交易への影響力を拡大した。[14]

16世紀前半には、ポルトガルの進出に対してテルナテ王国やティドレ王国などの現地勢力がそれぞれ異なる外交政策をとった。ポルトガルはテルナテと関係を結ぶ一方、ティドレなどとは対立した。

スペインもフィリピンを拠点としてマルク諸島に進出し、特にティドレと結びついた。1529年のサラゴサ条約によって、スペインとポルトガルのマルクをめぐる対立には一定の整理が図られたが、現地の政治勢力は必ずしもヨーロッパ勢力の取り決めに従ったわけではなかった。16世紀後半にはテルナテとポルトガルの対立が激化し、1570年にはテルナテのスルタンハイルンがポルトガル側によって殺害された。その後、テルナテでは反ポルトガル勢力が拡大し、1575年にはポルトガル勢力がテルナテから追放された。[14]

フランシスコ・ザビエルは1546年から1547年にかけてマルク諸島で活動し、カトリックの宣教を行った。ポルトガル勢力と結びついた宣教活動は、マルク諸島の一部地域におけるキリスト教の定着にもつながった。

オランダ東インド会社の進出

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16世紀末になるとオランダ商人もマルク諸島へ進出した。オランダの遠征隊は1590年代からマルク産のクローブやナツメグなどを求めて東南アジアへ航海し、1602年にはオランダ東インド会社(VOC)が設立された。VOCはオランダ政府から広範な貿易・軍事上の権限を与えられ、アジアの香辛料貿易を独占する政策を進めた。[15]

1605年、VOCはアンボンのポルトガル要塞を占領した。これにより、オランダは南部マルクにおける主要な軍事・商業拠点を確保した。その後、VOCはテルナテ、アンボンなどを拠点として、現地の政治勢力との同盟や軍事行動を通じて支配地域を拡大した。[15]

VOCは香辛料を生産地で独占することを目指し、クローブ、ナツメグ、メースなどについて生産・流通を統制した。17世紀初頭には、現地の政治勢力だけでなく、中国人やイングランド人などの商人もマルクの交易に参加しており、VOCはこれらの競争相手を排除しようとした。[12]

1619年、VOCはジャカルタを占領してバタヴィアと改称し、アジアにおける本拠地とした。マルク諸島に対しても、バタヴィアを中心とするVOCの軍事・商業ネットワークが形成された。[15]

バンダ諸島征服

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1621年、VOC総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはバンダ諸島の征服を開始した。バンダ諸島では、それまで住民が複数の外国商人と交易しており、VOCが求めた香辛料貿易の独占に抵抗していた。

VOC軍による征服では、バンダ人の大量殺害、奴隷化、追放などが行われ、従来のバンダ人社会は大きく破壊された。近年の研究では、この1621年の事件を「ジェノサイド」と位置づける研究もある。[16]

征服後、VOCはバンダ諸島にプランテーションを設け、ナツメグとメースの生産を統制した。従来の住民に代わって外部から労働者を導入し、VOCが指定した生産・流通体制を構築した。この結果、バンダ諸島の人口構成と社会構造は大きく変化した。[16]

17世紀半ばまでにVOCはマルク諸島の主要な香辛料産地に対する支配を強めた。こうしてマルク諸島は、ポルトガル、スペイン、イングランドなどが競争した地域から、VOCが強い独占支配を行う地域へと変化した。[12]

18世紀からオランダ領東インド成立まで

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18世紀になると、クローブやナツメグの栽培がマルク以外の地域にも広がり、マルク諸島が持っていた香辛料生産の独占的地位は徐々に低下した。一方、VOCは東南アジアの広い範囲で政治・軍事的影響力を維持した。

1799年、財政難などからVOCは解散し、その植民地と権益は1800年にオランダ政府へ引き継がれた。以後、マルク諸島はオランダの植民地統治下に置かれ、オランダ領東インドの一部となった。

19世紀から20世紀前半にかけて、マルク諸島では植民地行政が強化された。アンボン人を中心とするキリスト教徒の一部はオランダ植民地軍である王立オランダ領東インド陸軍(KNIL)に兵士として採用された。これが後のインドネシア独立戦争と、モルッカ人兵士のオランダへの移住問題につながることになる。

第二次世界大戦とインドネシア独立

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1942年、日本軍がオランダ領東インドを占領し、マルク諸島も日本の占領下に入った。日本軍政下では物資の供出や労務動員などが行われた。また、KNILに所属していたモルッカ人兵士の一部は、日本軍に対する戦闘に参加した。

1945年8月17日、スカルノとモハマッド・ハッタはインドネシア独立宣言を行った。オランダは戦後、旧植民地における支配の回復を試みたが、インドネシア共和国との間でインドネシア独立戦争が始まった。

戦争終結に向けた交渉の結果、1949年8月23日からハーグでオランダ・インドネシア円卓会議が開催された。会議の目的は、オランダとインドネシア側の合意によって主権移譲の方法を定めることであった。会議にはオランダ、インドネシア共和国、連邦協議会(BFO)の代表が参加した。[17]

1949年12月27日、オランダはインドネシア連邦共和国(RIS)へ主権を移譲した。南マルクはRISを構成する東インドネシア国の一部となった。[18]

円卓会議をめぐっては、後の南マルク独立運動の支持者が、同会議によって地域の自決権が保障されていたと主張することがある。一方、会議の公式記録で確認できる主要な合意は、インドネシア連邦共和国への主権移譲と、その国家構造・オランダとの関係などに関するものであった。したがって、「1949年の協定によって南マルクに独立国家を選択する権利が正式に与えられた」と単純に記述することは適切ではない。[17]

南マルク共和国

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1950年、インドネシア連邦共和国では連邦制から単一国家への移行が進められた。南マルクでは、旧KNILのモルッカ人兵士などを中心に、インドネシア共和国への統合に反対する動きが強まった。

1950年4月25日、クリス・スモキルらはアンボンで南マルク共和国(Republik Maluku Selatan、RMS)の独立を宣言した。RMSはインドネシア政府から承認されず、インドネシア軍との武力衝突に発展した。[18]

1950年には南マルク共和国側とインドネシア軍との戦闘が続き、最終的にインドネシア軍がアンボンを制圧した。RMSの主要な軍事勢力は敗北したが、RMSを支持する政治運動は存続した。

1950年7月26日、KNILは正式に解散した。モルッカ人を含む旧KNIL兵士は、インドネシア軍への編入または退役などの選択を迫られた。RMSを支持するモルッカ人兵士の一部については、インドネシア国内での武装解除・解散をめぐる問題が発生した。[18]

モルッカ人のオランダ移住

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1951年、RMSを支持する旧KNIL兵士とその家族の一部は、オランダへ移送された。1951年3月21日には最初の船「コタ・インテン」がロッテルダムに到着し、同年2月から6月にかけて約12,500人のモルッカ人が12回の航海でオランダへ移送された。[18]

当初、オランダ政府は彼らの滞在を一時的なものと位置づけ、モルッカへの帰還を想定していた。移住者はオランダ各地のウーンオールデン(woonorden)と呼ばれる居住施設などに収容・居住した。オランダ国立公文書館によれば、初期には市民権、就労、住居などをめぐって厳しい制約があり、モルッカ人社会では帰還とRMS独立への期待が維持された。[19]

その後、帰還は実現せず、多くのモルッカ人がオランダに定住した。1960年代には、オランダ生まれの第二世代も成長し、RMS独立問題とオランダ政府の政策をめぐる政治活動が活発化した。

RMS運動と1970年代の武装事件

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1966年4月12日、RMS大統領クリス・スモキルがインドネシアで処刑された。これを契機として、オランダのモルッカ人青年の一部では抗議活動が活発化した。1966年7月27日には、モルッカ人青年の一団がハーグのインドネシア大使館に放火を試みた。[19]

1970年、インドネシア大統領スハルトのオランダ訪問に際して、モルッカ人青年の一団がワッセナールのインドネシア大使公邸を占拠した。青年らは、RMS亡命政府の指導者ヨハン・マヌサマとスハルトとの会談を要求した。[19]

1975年12月2日、7人のモルッカ人青年がワイステル付近で列車を乗っ取り、乗客を人質に取った。事件は12日間続き、運転士1人と乗客2人の計3人が死亡した。12月14日、犯人らは投降した。[20]

同じ1975年12月4日、7人のモルッカ人青年がアムステルダムのインドネシア総領事館を占拠した。事件は12月19日まで続き、総領事館員1人が死亡した。[20]

1977年5月23日、9人のモルッカ人青年がデ・プント付近で列車を乗っ取り、50人以上を人質に取った。同時に4人がボーフェンスミルデの小学校を占拠し、105人の児童と5人の教員を人質に取った。小学校の人質は4日後に解放された。[19]

一方、列車の占拠は20日間続き、6月11日、オランダ海兵隊による突入によって終了した。この際、乗客3人と犯人6人が死亡した。事件の終結方法については、後年、死亡した犯人の遺族がオランダ政府を訴え、軍が犯人を至近距離から殺害したとの主張がなされた。裁判では遺族側の請求が退けられたが、事件の詳細についてはなお議論が残っている。[19]

1978年3月13日、3人のモルッカ人青年がアッセンのドレンテ州庁舎を占拠した。翌3月14日、軍による突入によって事件は終了し、人質2人が死亡した。この事件を最後に、1970年代にオランダで発生した一連のモルッカ人青年による大規模な武装占拠事件は終息した。[19]

1970年代の事件は、オランダのモルッカ人社会全体による行動ではなく、RMS独立を要求した一部の青年による武装行動であった。事件の背景には、RMS独立運動、旧KNIL兵士とその家族のオランダ移住、帰還が実現しなかったこと、オランダ政府の政策に対する不満、第二世代の政治的急進化など、複数の要因があった。[19]

行政

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マルク諸島は、インドネシア独立後から1999年まで単一の州を構成していたが、その後二つの州に分割された。新設された北マルク州(インドネシア語: Provinsi Maluku Utara)は、モロタイ島からスラ諸島県(インドネシア語版)に至る地域を含み、一方でブル島およびセラム島からウェタル島に至る島嶼群はマルク州(インドネシア語: Provinsi Maluku)に属したままとなった。北マルク州はイスラム教徒が多数派であり、州都はハルマヘラ島のソフィフィに置かれている。対してマルク州ではキリスト教徒人口の比率がより高く、州都はアンボンである。

住民の起源は本来メラネシア人であったが、[21] とりわけバンダ諸島では、17世紀のオランダ・ポルトガル戦争(香料戦争とも呼ばれる)の期間中、多くの島民が虐殺された。20世紀初頭には、オランダ植民地政府の下で主としてジャワ島からの移民流入が始まり、この政策はインドネシア独立後にも継続された。こうした移住政策は大きな論争を引き起こし、とりわけインドネシアの移住政策(インドネシア語版)がマルク宗教抗争(インドネシア語版)の要因となったと指摘されている[22]。

州

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マルク諸島はマルク州と北マルク州に分かれる。
  1. マルク州 (アンボン)
  2. 北マルク州 (テルナテ) テルナテ島

島嶼

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北マルク州は、テルナテ島、ティドレ島、en:Bacan、ハルマヘラ島、モロタイ島、オビ諸島、en:Sula Islands。

マルク州は、アンボン島、en:Lease Islands、セラム島、ブル島、バンダ諸島、Gorong Islands、Watubela Islands、カイ諸島、アルー諸島、南に離れてバラトダヤ諸島(英語版)のen:Babar Islands、ダマル島(Damar Islands)、ロマン島(英語版)、en:Kisar、en:Leti Islands、タニンバル諸島、ウェタル島。

脚注

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  1. ↑ ジョセフ・M・カーリン『カクテルの歴史』原書房、2017年、66頁。
  2. ↑ “マルクへようこそ”. Lonely Planet. 2017年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月11日閲覧。
  3. 1 2 UNGEGN. “Geographical Names Standardization Guidelines”. 2026年6月5日閲覧。
  4. ↑ Pigeaud, Theodoor Gautier Thomas (1960c). 14世紀ジャワ ― 文化史研究 第3巻:翻訳編 (第3改訂版 ed.). ハーグ: Martinus Nijhoff. ISBN 978-94-011-8772-5
  5. ↑ Pigeaud, Theodoor Gautier Thomas (1962). 14世紀ジャワ ― 文化史研究 第4巻:注釈および総括 (第3改訂版 ed.). ハーグ: Martinus Nijhoff. ISBN 978-94-017-7133-7
  6. ↑ Amal, Muhammad Adnan (2016). 香料諸島 ― 北マルク史の旅 1250-1950. ジャカルタ: Gramedia. ISBN 978-6024241667
  7. ↑ ISO 3166-2:ID(地理単位名:ID-ML: Maluku)を参照。
  8. ↑ 国際協力銀行 (JBIC). “地域編⑧:スラウェシ、マルク・パプア(投資環境報告)”. 2026年6月5日閲覧。
  9. ↑ 環境省. “インドネシア東部セラム島における多様な森の創出”. 2026年6月5日閲覧。
  10. ↑ 例えば、帝国書院『最新世界史図説 タペストリー』等の世界史教科書・地図資料において、「マルク諸島」への移行が進んでいる。
  11. ↑ Villiers, John (1981). “Trade and Society in the Banda Islands in the Sixteenth Century”. Modern Asian Studies 15 (4): 723–750. doi:10.1017/S0026749X0000874X.
  12. 1 2 3 “Junks to Mare Clausum: China-Maluku Connections in the Spice Wars, 1607–1622”. Itinerario (ケンブリッジ大学出版局). (2020).
  13. ↑ “Sejarah Masuknya Islam di Maluku”. Balai Pelestarian Nilai Budaya Maluku. 2026年9月26日閲覧。
  14. 1 2 “Malay magic on the colonial frontier: Ternaten spellcasters and hostages of war in seventeenth-century Manila”. Journal of Global History (ケンブリッジ大学出版局). (2025).
  15. 1 2 3 “Interwoven Globe: The Worldwide Textile Trade, 1500–1800”. メトロポリタン美術館. 2026年9月26日閲覧。
  16. 1 2 Dhont, Frank (2023). “Genocide in the Spice Islands”. The Cambridge World History of Genocide. ケンブリッジ大学出版局. pp. 186–214. doi:10.1017/9781108765480.009
  17. 1 2 “Inventaris van het archief van de Ronde Tafel Conferentie Indonesië, 1949”. オランダ国立公文書館. 2026年9月26日閲覧。
  18. 1 2 3 4 “1951: Eerste Molukkers komen aan in Nederland”. オランダ国立公文書館. 2026年9月26日閲覧。
  19. 1 2 3 4 5 6 7 “Molukse jongeren in verzet (1970-1978)”. オランダ国立公文書館. 2026年9月26日閲覧。
  20. 1 2 “Inventaris van het archief van het Ministerie van Justitie: Molukse acties (1970-2000)”. オランダ国立公文書館. 2026年9月26日閲覧。
  21. ↑ IRJA.org Archived 2009年4月14日, at the Wayback Machine.
  22. ↑ “IV. THE CONFLICT”. Indonesia:The Violence in Ambon. Human Rights Watch. (1999年3月) 2024年2月27日閲覧。.

関連項目

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